香酸柑橘ゆうこうの由来について


長崎特産の「ゆうこう」は外見上はユズやカボスに似ていて完熟するにつれて黄色に色づき、料理に対しては香りを主張しがちなユズやカボスに比べて、まろやかな香りと味が料理を引き立て、自己主張が強くないので使い勝手が良い柑橘である。 しかし、いつ頃に誰が、どのようにして栽培してきたのか不明であるが、限られた資料、関係者からの聴取と現地調査の結果を元に取りまとめてみました。

【「ゆうこう」は四国から?】
「 ゆうこう」と言う名前から、徳島県で栽培されているユズの近縁種で果汁を食酢として利用する香酸柑橘「ユコウ?柚柑」に発音は似ていて間違えられるが、「ゆうこう」には漢字はない。又、果実外形、果皮、果肉、種子の形質から、全く異なる事が根角博久氏(独立行政法人果樹研究所)らによって明らかにされた。これにより「ゆうこう」は長崎の「新種」として 平成17年9月に静岡市で開催された園芸学会で香酸柑橘「ゆうこう」が新種であると発表されました。

【誰が、いつ頃から、植えて来たのか】
「ゆうこう」が潜伏キリシタンの住んでいた外海地区と土井の首地区のみで育っている。最近になって、外海地区から移動した潜伏キリシタンのいた五島(中通島、奈留島)にも自生していた柑橘「クネンポ」が「ゆうこう」であることが判明した。同様に唐津市馬渡島(まだらしま)でも「ゆうこう」は自生しているので、「ゆうこう」は潜伏キリシタンが住んでいた地域に限定されることから、彼らが栽培を継続していたと言うことになる。いずれの地域も佐賀藩である。  (潜伏キリシタンが住んでいた佐世保市の黒島や平戸市には自生していない)  そうなるとキリシタン達が 栽培を始めたと考えられる。キリシタンの歴史となれば、日本に初めて来日してキリスト教を教えたのはフランシスコ・ザビエルで1549年のことである。
キリスト教は織田信長の許可を得て布教は広がって行ったがキリスト教が広がるにつれて豊臣秀吉が九州平定後の1587年7月にキリスト教の禁止を表明する。1596年に再び出した禁教令によって京都で活躍していたフランシスコ会他の26名のキリスト教徒が処刑された(二十六聖人)。 本格的な禁止令は1612年及び1613年に江戸幕府が発令して、キリスト教の弾圧が始まった。 特に1637年に起こった島原の乱の前後から幕府による徹底した取り締まりが行われた。
この頃から、カトリック教徒やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞い、1664年以降は国内に一人のカトリックの司祭がいない状況ながらも、密かにキリスト教を捨てずに代々伝えていった。(この人達を潜伏キリシタンという)   長崎の潜伏キリシタンが、弾圧を逃れて外海地方(樫山)から土井の首地区に逃れて移り住んだ事が深堀の善長谷教会の説明板に示されて、その年は文化2年(1805年)と示されている。

 善長谷教会の説明板


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